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珍しく5時台に目を覚ます。昨日は疲れのせいか晩ごはんとか風呂屋とか、そういうあれこれを考えながら寝落ちしてしまった。疲れている時は風呂屋に行った方がいいのに風呂屋に行けずに寝落ちしてしまう問題には、まだ有効な答えを持ち得ていない。疲れて帰る予感がある日には布団を敷きっぱなしにして家を出たり、お風呂セットを玄関に置いて家を出たりするのだけれど、効果はどうもいまひとつだ。身体と心が疲れている時には行動する気力が足りないので、その為には音楽を聴くなどのもうひと工夫が必要なのかもしれない。それに、疲れる日々が続くと布団が連日敷きっぱなしになるじゃないか。あと、家の風呂があまり機能していないのも問題だ。プールのシャワーか風呂屋を愛用しているのだけれど、家の風呂でも風呂屋ばりに疲れが取れればいいのに。今の家の風呂は浴槽がわりと小さいのだ。こんな些細な問題も、文字に書いてみると考えが進むのでやはり書くことは重要だ。頭の中身を一度外に出してみると客観的に見えるようになるのだ。書く速度と考える速度が同じくらいになるとたのしい。考える速度は脳というハードウェア依存で書く速度は手というハードウェア依存で、そんなの考える方が早いに決まっているのに(ハードウェアの性能的に)意外と誤差が無いってことは手を早めれば頭の回転も早まるってことですねきっと。この話前にも書いた気がするね。

 

 

久しぶりにひげを剃ったら顔がやたらつるつるになった。本来あるべきパーツが何か足りないような気がする。以前と比べて少し痩せたように見えるのは、気のせいであって欲しくない。昨日の夜は疲れていたのでチョコモナカジャンボを食べながら歩いていたらなんだか人の視線を感じたので、前を見ると以前の職場の後輩が居たのでとりあえず「まいど!」と声を掛けておいた。その後輩は以前の職場の人間の中でもネガティブな感情を抱いていない希少な存在なのだ。以前の先輩がわりとご機嫌でアイスを食べながら歩いているのは(久々に食べたチョコモナカジャンボがとてもおいしかったのだ)どのように見えたのだろう。楽しそうに生きているなぁ、みたいに見えているといいなぁと思う。

 

 

5時台に目が覚めて、ちゃんと着替えて布団をかぶって二度寝したら7時半で、そこから布団の中でうだうだしていたら9時を過ぎた。早くに寝てしまったせいか完全に目が覚めてしまったのでモーニングをコメダ珈琲に行くかドトールコーヒーに行くかをすごく真剣に考えた。どうも私の人生には深刻さが足りない。とりあえず朝から近くのショッピングモールに入っている大型書店に行く予定もあるので、そこに近いコメダ珈琲に今日は来た。ここのコメダは休日のモーニングが終わるギリギリの時間に来ると混んでいることが多いのだけれど、平日の少し早めの時間だと空いているのでよい。狭い席に案内されるとどうものんびりできないのだ。10時に本屋はオープンするのにもうとっくに10時は過ぎてしまった。小林銅蟲先生の「寿司虚空編」と阿部共実の「月曜日の友達」とせきしろさんの「1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった」を求めて本屋に行くのだけれど(阿部共実だけ呼び捨てなのに他意はありません、なんとなく自分の中の呼び方のしっくりくる呼び方なので)行く前から寿司虚空編だけが無い確信がすごい。どこの本屋に置いてるんだ。Amazonで買おうかしらん。

 

 

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8月ももう終わろうとしているのだけれどそういえば以前に植えたアサガオはすくすくと伸びている。8月の陽射しのせいか、理由もまったくわかっていないしそもそもいろんな種類のタネを蒔いたのでどれが育っているのかも全然把握していないのだけれど、そのわかってなさがおもしろい。それに元気にすくすく育っていく様を見るのは悪い気分ではない。もうひとつ仕掛けておいたお金を使った遊びはちょっとした佳境を迎え、一瞬芽生えた市場を支配している感覚がとても心地よかった。これに取り憑かれてしまうと人間がよくない方向に流れていくんだろうなぁと思う。人より優位に立つとすぐに芽生える幼い支配欲はできるだけ抑えよう。結局は執着が薄い方が勝つんだなぁと思う。

 

 

普通の人の普通の文章こそがおもしろいってことを信じることだけが希望で、まぁそれを信じてどうでもいいことを今日も書きました。なんの根拠もないどうでもいいことを信じることができるくらいの余裕を持って生きていきたいものですね。あしたもあさってもその先も。

 

とっぴんぱらりんのぶぅ。