八本脚の蝶。

風呂屋帰り、髪を乾かさずに文章を書く。

 

体調がどうも悪い。

ここしばらく体調がどうも悪くて、なんだか体は重くてだるいし頭はぼーっと熱っぽいし、でも体温計を脇に挟んでみても熱は無いし、どうも食欲が無いし吐き気もたまにあるしなんだろうなぁと思っていたところ、嘔吐した時に血っぽいものが混じっていたのでこいつはいよいよマズいぞ?と思い、しばらく大人しく過ごしていました。だいたい寝て過ごしていました。休みもあまり遊びに行かず、ジムやピアノの練習や他にも楽しい各種あれこれを我慢して過ごしていました。体調が悪いと思考もわりとそちらに引っ張られるので実によくない。くだらないことをあれこれ考えてしまう。私が人生を掛けて作り上げてきたキャラクターや思考や哲学やあれこれがたかが体調不良くらいで崩れてしまうのがすごくすごく悔しい。人類の尊厳とは。私が努力して積み上げてきたものは少し体調が悪いくらいで簡単に崩れてしまう、という事実を突き付けられているような気分になる。そしてそれはその通りなのだ。早く肉体から開放されてただ思考する主体としての私でありたい。ハードに依存しないソフト、というものは人類の夢なのでしょうかね。量子コンピューター的なもんなんかね。せめて高等遊民として日々思考の海を漂っていたい。

いよいよ明日は病院に行こうかしら、という段階になってようやく体調が回復してきました。今週中には全快といきたいものです。

 

二階堂奥歯の日記を読んでいる。

私は基本的に他人をコンテンツとして消費して生きているので(たまに怒られる)、亡くなっている人はもう完結済みの作品として楽しむことができるので嬉しい。人は生きている限り更新され続けるので、全然面白くないと思っていた人がある日急に面白くなることがある、ということを否定出来ない。それでもずっと更新を追い続けることをできる数も限られているので、どうしても取捨選択を迫られる。人生とは選択の連続なのだけれどそれでもある種のストレスである。まぁ亡くなってからもコンテンツとして生き続けることもあるけれども。計劃〈Project〉終わらないー。

初めから順に読み進めていく。一日が終わるごとに少し長めの瞬きをして、そして次の日を読む。今読んでいるのは2002年、私はその頃彼女のことなんて少しも知らなかったのだけれど、確かに同じ時を生きていたことを少し嬉しく思う。私の2002年に彼女が生きていた2002年という付加価値を与えてくれる。生きた日数より多くの本を読んだらしい彼女の日記を読むと読みたい本がたくさん出てくるので、最後まで読み終わったら彼女の好きだった本を読んでみようと思う。私と彼女の間に本があるという、そのことが実に愛しい。とにかく実に美しい文章を書く人です。彼女の日記を読むことで二階堂奥歯という物語を読むように、いつか私のこのブログが読まれるとすごく幸せだなぁと思う。いつの日か私に興味を持った人が私のことを知りたくてこの文章を読む日が来ることを夢見て私はこれからも文章を書こうと、物語を紡ぎ続けようと思います。

 

いつだって私の頭の中にあった筈の文章は書き出すとなんだかひどく違和感のあるものに見える。もっと曖昧な表現に逃げずに(曖昧さこそが世界を正確に表現することだとしても)私の主観である私の文章には、より強く美しい言葉が必要である。

 

今日は電車で見るからに食いしん坊のような見た目の人のスーツの襟に黄色いシミが付いていて、それだけでその人がカレーを美味しそうに食べている様子が(カレーを溢す様子まで)ありありと目に浮かぶようですごく良かったです。私ももっと物語を纏って生きようと思います。